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物語作文「白銀の鯉」(作文道場)

「白銀の鯉」笑羽バカ太郎(小6)

 ぼくは、お父さんのことがきらいだ。
 大きらいだ。お父さんがどう思っているかなんて知ったこっちゃない。お父さんはテンキンゾクとかいうやつで、日本中を飛び回っている。そして、たまに家に帰ってくると、ささいなことでぼくを怒る。そんなときお母さんは友達とパーティなんかにいっているからぼくの味方はだれもいない。
 そして、今年の夏休み。お母さんは仕事でいないので、九州から帰ってきたお父さんと長野のじいやの家に行くことになった。じいやというのは世間ではおじいちゃんと呼ばれている人で、来年中学生だというぼくが、「おじいちゃん」と言うのも子供っぽいし、親戚なので「じじい」とも言いづらいし。じいやになってわけである。
 それはともかく、ぼくとお父さんは新幹線に乗った。新幹線の中では、ぼくとお父さんはしゃべらなかった。それもそうだろう。前の日の夜、ぼくが門限を三十分破ったからといって家に入れてくれなかった。それこまではまだいいのだが、問題はそこからである。それでぼくは好きにしていいという意味なのだと思い、もっと遊んでいたら今度はどなられたのである。まったく親というのはひどいものである。
 そうこうしているうちに、駅に着いた。駅といっても田舎の線路とホームだけというような無人駅である。そこからじいやの家までは、バスか歩き。ぼくはバスがいいと言ったが、お父さんが歩けと言うので、しかたなく歩いた。
 じいやの家に着いたころには、もうぼくの足は棒のようになっていて、じいやのよく来たなどという声は耳には入らなかった。家に入るとぼくは座敷に寝転がった。
 気がついたら夜になっていた。となりではじいやとお父さんが夕飯を並べていた。
 そして、夕食の時、じいやがこんな話をはじめた。
「てっちゃん(じいやはぼくのことをこう呼ぶ)や、今からおもしれえ話してやっからな。おまえ、白銀(しろがね)様って知ってか。白銀様ちゅうのはな、印葉沼の主なやけどのう。」
 その後の話は細かいところまでは覚えていない。たぶん飯がうまかったのだろう。この話を要約するとこうなる。
 江戸時代の話。この近くの印葉沼という沼には一丈(3,03メートル)もある銀色の鯉の主がいた。その鯉のことを人々は、白銀さまと言って寺社をたててまつっていた。そして、その神主の子孫がじいやで、今もじいやが沼を管理している。さらにここ数年印葉沼で銀色の巨大な魚が泳いでいるのを見たという人が出てきた。そこで、ぼくとお父さんに調べてもらいたいというものだった。
 この話を聞いたとき、ぼくは興奮していた。おどろきと喜びの混ざった興奮だった。しかし、納得のいかないところもあった。お父さんと協力してというところである。なぜぼくがお父さんと協力しなければならないのか。それが納得できなかった。
 何日かして、ぼくと倒産はつり道具と弁当、カメラを持って印葉沼に向かった。
 印葉沼に着いてもはじめのうちは気長に釣り糸をたらしていた。主と呼ばれているような鯉はそう簡単には姿を見せないだろうと考えたからだった。しかし、時がたつにつれ、ぼくとお父さんの顔にはあせりの色が出てきた。弁当を食べ終わってからはだいぶ時間がたっていて、空は赤みを帯び始めていた。そして、釣れた魚は小さな雑魚だけだった。この雑魚たちは白銀様の手下なのだろうか。そう考えると、白銀様までの道はとても長いように思えてしかたがなかった。
 印葉沼に来てからどれくらいたったのだろうか。空には星が見え始めていた。ぼくは、白銀様もこの星たちのように光り輝いているのだろうと思った。それとは対照的なのはお父さんだった。ここに来てからずっと、ときどき顔をかきむしりながら、じっと沼を見つめて釣り糸をたらしていた。しかし、そのお父さんの姿にも、ぼくは共感できるところがあった。お父さんの気持ち。きっとぼくと同じようにお父さんの心の中でも戦いが起こっているのだろう。家でぼくたちを待っているじいやの姿と、美しい銀色にかがやく白銀様との戦いが。そして、今は白銀様の方が勝っていて、ぼくたちを沼にとどめさせているのだ。そう考えると、白銀様はすぐそばにいるように思えた。そう、ぼくたちが気付いていないだけで-。
 その時だった。
 水面を銀色のかげが横切った。そのかげはとても大きく、魚の形をしていた。お父さんはとっさに横に置いてあるカメラに手をのばした。しかし、その時にはもうおそかった。その銀色のかげは尾びれを水から出し、ものすごい力で水面をたたいた。その力はすさまじく、津波のように、向こう岸にいたぼくたちに水がおしよせ、カメラを沼へ引きずり込んでいった。それは、神である白銀様の姿を文明が生んだものであるカメラなんかで残しておこうという考えがおろかだ、ということを伝えているようにも思えた。白銀様が急にただの鯉ではなくとても神聖なものになったような気がした。そして、白銀様がぼくたちに姿を見せたのは、お父さんの心の中の戦いがあったからのように思えた。お父さんが、とても偉い人のように見えた。
白銀様よりかはおとってたものの、とてもきれいな満月が空でかがやいている中、ぼくたちは帰路についた。じいやが家でぼくたちのことを首を長くして待っているんだと考えると、うれしくなった。
 家に帰ると、じいやは、ごはんを作って待っていてくれて、ぼくたちの話を何度もうなずきながら聞いてくれた。 
 テレビでは野球の中継をしていた。ぼくとお父さんが大ファンの巨人戦だった。このときは、ちょうど巨人が十点差をひっくり返して逆転勝利をしたところだった。選手たちが喜ぶのを見ながら、ぼくとお父さんは笑いあった。
 その後、東京へ帰る新幹線の中でぼくは考えた。白銀様が最近よく現れるようになったのは、ぼくたちを印葉沼に呼んで、ぼくとお父さんの仲をよくするためだったのではないか。
 そう考えると、白銀様には頭の下がる思いだった。
 今日も白銀様はどこかの親子の仲を直しているのかもしれない。いや、今度は夫婦かもしれない。しかし、どっちにしろ、この後も白銀様が神としてあがめられ続けることは確かだろう。数千年、数万年もその先もずっと、人々の仲をよくしていきながら―。